ちゃんとするをやめてみる
「ちゃんとする」ことにたくさんの時間とエネルギーを費やしてきた。
ちゃんとできないと何度も一人で泣いた。そんな話を夫にすると「あなたは、ちゃんとできてるよ。真面目すぎるぐらい。あなたは、いい加減ぐらいがちょうどいいよ」と言ってくれる。
大好きな祖母や、両親も私を心配していた「敦子は真面目すぎるから」それが私にはよくわからなかった。いい加減なとこも、できないこともあるし、嫉妬もするし、間違うし…と言うと、夫が「そういう自分を認めてるのも、真面目っていうんだよ」そうなのか、そうなのかなあ。
今年、歌い始めて30年なのに、歌が作れなかった。歌いたいと言う気持ちも湧かなくなった。コロナの影響もあるだろうけど、きっとそれだけじゃない。
私は求められているんだろうか、いらないんじゃないだろうか、自分の存在意義がわからなくなった。
文章も書けなくなった。書き始めても途中で、こんなの何になるんだ?と消したくなった。
じゃあもうやめてもいいんじゃないか。ブログもSNSもやめたくなった。歌える日は来るのか、私はまた歌いたくなるのか、不安になった。
反応は怖い。こうして投稿することも、コメントの返信や直接のやりとりも、私の言葉で不快にさせてないか、傷つけてないか、嫌われないか、その思いがどうしても湧いてくる。
心のどこかではわかっている。私はいらない存在なんかじゃない。反応もそんなに怖がらなくていい。でも、どうしようもない、それが私なんだろう。良い悪いじゃなく…。
そうだ、消す前に、やめる前に。
できることはないだろうか。
前向きな気持ちが湧いてくる。
「私はここにいるよ」そう自分から言わなきゃ、誰にも気づかれない。生きる証の歌も絵も、誰にも届かない。なんか悔しいじゃない。知られないまま、いない人のまま、本当にいなくなってしまうのは…
ちゃんとすることをやめる。
ちゃんとしてない歌だけど、絵だけど、文章だけど、私だけど。それはそれでいいんだ。
下手には下手な良さが、そこそこにはそこそこの良さが、クオリティの高いものにはその良さが、きっとどんなものにも、どの段階でも、いい面や悪い面や共感や反感や様々なものがあるんだろう。
そもそも、私から生まれるものが、どんなに頑張ったって、私以上にはなれないんだから。
この私で、飾らずに発表するものと。人の手を借りてグレードアップするものと。両方あっていんだろう。
「ちゃんとする」なんて、そもそも…人それぞれ違って、曖昧なものなんですけどね。私を真面目と言う人もいれば、怠け者、頑張ってない、もっと努力しろって言う人もいるんだし。
とこんなことを書くのも、夫に言わせると、真面目ってことなのかもしれないなあ。
そんなのできないをやってみる
「歌なんだから、全部、経験したことを書かなくてもいいんだよ。」
「そんなのできない!………………あっ、それをやったらいいのか」
夫との会話で、目から鱗だったこと。
「自宅で撮った染矢さんの動画を見たい」メッセージをいただいたけど、苦手で。でもそれもやってみる。まだピアノを弾く手元と歌だけだけど。
流れて行くSNSが苦手だった。でも、それもちょっと頑張ってやってみている。
そんなのできない!って思ってたこと、やってみたらどうなるんだろう。実験中。
でもまだ苦手なのが自分の顔をネットにアップすること。自分の顔を写す動画もまだできていないんだなあ。そのうち、そのうちね。
歌が生まれる、文章が書ける
上の文章を書いたのは、9月の終わりぐらいだったかな。
ちゃんとするをやめてみて、そんなのできないを少しずつやってみると、完全実話の歌ができた。他にも歌が生まれはじめ、文章もだんだん書けるようになって、なぜか絵をたくさん描くようになった。
そして先日、8ヶ月ぶりのコンサートがあった。私は幸せに歌っていた。
歌える日は来て、もっと歌いたい、もっと歌を作りたいと思っている、私がいる。
もう消そうかなと思った記事だけど、記録のために。アップしています。
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